基本情報

郷土館建物配置図

所在地
〒666-0107 川西市下財町4番1号

電話・ファクス番号(共通)
072-794-3354

開館時間
午前10時から午後4時30分まで(入館は午後4時まで)

休館日
月曜日(月曜日が祝日に当たる場合はその翌日)
12月28日から1月4日まで

入館料
18歳を超えるもの 300円(団体割引200円)
18歳以下 150円(団体割引100円)

川西市・伊丹市・宝塚市・三田市・猪名川町の小学生・中学生は無料
団体割引の適用は20人以上
65歳以上のかたは「18歳を超えるもの」の半額
障がい者及びその介護者は半額

駐車場
普通車 約10台

旧平安家住宅(国登録有形文化財)

旧平安家住宅正面入り口 旧平安家住宅は、この地方の伝統的民家の特徴と、明治以降広まった数寄屋風の造り、そして技術的な革新と近代性を備えた建物として、大正中後期に建てられました。
 主屋は、土間に沿って三間が並ぶ六間取りの平面構成で、細部意匠もこの地方の伝統と考えられます。素材は桧と欅が中心で、しかも無節の厳選されたものが使われています。
 玄関部分には接客用の部屋(現在の事務室)があり、接合部に金属の補強が見られるなど、近代的特徴が見受けられます。また、中庭に面した屋根を一文字瓦葺とするほか、廊下や縁側に化粧垂木を用い、床柱にも銘木を用いるなど数寄屋風の造りがうかがえます。
 全体としては、中庭を取り囲むように、蔵4棟、はなれ座敷・浴室が配置されています。その外の東側に米蔵・納屋が南北一列に並ぶ二重の構成をもった大きな屋敷で大正期の生活をうかがい知ることができる貴重な建物といえます。

旧平賀家住宅(国登録有形文化財)

旧平賀家住宅外観 旧平賀家住宅は、平賀義美博士が大正7年に猪名川沿いの川西市小戸に建設した、イギリスの田園住宅の形式を極めて良く遵守した住宅です。平賀博士は、安政4年(1857年)に福岡県で生まれ、東京大学を卒業した後、関西財界の振興に尽力され、多くの公職及び財界団体の要職につかれていました。イギリス等欧米に外遊7回を重ねられ、このことが旧平賀家住宅の建築意匠に反映されることになりました。施工は、鴻池組があたりました。
 外壁は小石の洗い出しで、基礎はみかげ石積み。洋小屋スレート葺きの屋根のかかった平屋の建物です。外観は出窓と煙突がアクセントとなっています。内部は、客間・書斎・寝室等の部屋が配され、出窓・暖炉が付けられ、イギリス流の形式を忠実に守っています。また、二重窓など合理的な設備と的確な装飾で引きしめるなど、端正で洗練された意匠で統一されています。大正期の住宅の典型として、日本の近代建築史上重要な建物といえます。
 その他、平賀博士が化学者であったことから実験研究棟と旧邸内にあった東屋・門・橋・胸像なども移築し、復元しました。

ミューゼレスポアール(青木・平通両画伯記念館)

  鉄筋コンクリート造り2階建て、外観は文化の発展性と求心性をイメージしたモダンな渦巻き状の円系建築。「ミューゼレスポアール」はフランス語で希望を意味しています。
 第1展示室(2階)では、川西市ゆかりの青木大乗(日本画家)・平通武男(洋画家)両画伯の画業を回顧して遺作を常設展示しています。
 第2展示室(1階)では企画展、講座・講習会を開催しています。

<青木大乗画伯>
 明治24年大阪市生まれ。昭和23年から川西市内に居住。洋画から日本画に転身、日本画壇に新風を引き込む。写実の中にも理想主義を貫き、「不二の美」の理念を提唱。徹底した写実の中に、内面としての「心」精神性の追求を終生の重要な課題とする。
◎現在の展示作品(第1展示室)
代表作「あらしに生きる」(川西市役所玄関に陶板レプリカを展示)「合掌」「南瓜」「白い花」「水辺白鷺」「サンマルク寺院広場」「白富士」「小雨けむるニューヨーク」「ニューヨーク」
「日本百景」・・・戦後間もない昭和23~24年にかけて各地を訪ね、描かれた秀作 
「大阪中ノ島」「旭光の富士」「日光戦場ヶ原」「雪の松島」「ドロ峡」「雨の馬関」「浅茅が原」「神戸港」

<平通武男画伯>
 明治40年、豊能郡能勢町生まれ。洋画家。昭和23年から川西市内に居住。日展参与となる。力強い作風で知られている。終始一貫アカデミックな制作態度を貫き通した画家で、質朴な重厚さと卓越したデッサン力を感じさせる。
◎現在の展示作品(第1展示室)
「踊り子」「黄色いパラソル」「アクロポリスの丘」「トレド・サンマルタン橋」「静物」「バラ」「冬の大山」「海」「二人」

アトリエ平通

 川西市をこよなく愛された故平通武男画伯及び故全子夫人の意向を受け、ご遺族よりアトリエのあった川西市花屋敷の土地・建物の売却益及び遺品が川西市に寄贈されました。この建物は、それをもとにアトリエを再現したもので、兵庫県産木材を使用した重ね梁工法を用いて建築しています。

平安製錬所跡

 現在、旧宅を川西市郷土館として公開している平安家は、多田銀銅山最後の製錬所として昭和初期まで操業していました。
 多田銀銅山は、兵庫県川西市・猪名川町・宝塚市から、大阪府能勢町・豊能町・箕面市・池田市にかけて鉱脈が広がっています。採掘は平安時代後期に能勢町の地域で始まりますが、川西市国崎地区の奇妙山神教間歩から奈良時代に東大寺大仏の銅を産出したという伝説もあります。最盛期は、安土桃山時代の豊臣秀吉による経営から江戸時代前期にかけての頃で、猪名川町銀山地区を中心に、川西市郷土館周辺の山下町下財屋敷も製錬町として栄えました。
 下財屋敷北部の平安家は明治以降も製錬を行ない、大正時代には新たに近代化された製錬所を旧平安家住宅の北東側に建設し、昭和10年頃まで操業していました。製錬所は溶鉱炉・真吹炉・送風機小屋・煙突からなっていたことが、発掘調査や聞き取り調査から明らかになっています。しかし、溶鉱炉や送風機等、近代化された施設を持つとはいえ、製錬の仕上げは近世以来の真吹炉が用いられていました。当時転炉を導入した近代化製錬所はすでにあり、これに比べると伝統的な小規模製錬所といえます。

鉱山資料展示室

 旧平安家住宅内の鉱山資料展示室では、平安製錬所で用いられた道具類や発掘調査の成果を展示しています。
 平安家は、明治以降も銅製錬を行なっていましたが、明治期と大正・昭和期の2期の製錬所があったことがわかっています。
 明治期の製錬所は、現在の旧平賀家住宅の北側にあったことが当時の写真でわかります。展示資料の吹子はこの時代のもので、近世と同様の製錬技法で操業していました。
 大正・昭和初期の製錬所は、ミューゼレスポアールの南側の位置にあったことが発掘調査で確認されています。一輪車などの道具類はこの時代に用いられたものです。

箸の展示室 一色八郎コレクション

 箸の展示室は、一色八郎氏により長年収集された箸のコレクションを展示しているものです。一色氏は、手の動きと脳の発達について大きな関心をもち、手を使うことが脳の発達を促すとして箸に着眼されました。収集された箸は920点に及び、日本各地の箸だけでなく、中国やモンゴルなど外国の箸にまで広がっています。
 箸は、祝い箸、工芸・民芸箸、塗り箸、神社の授与箸、寺院の授与箸、アジア各国の箸などに分類・整理されています。とくに、授与箸にみられるように、祈願やお守りと同様に箸が神聖なものとして発達しています。また、正月などのハレの日に使用する祝い箸などは、習俗や日本文化を考える上で重要なものとなっています。
 一色氏は、昭和57年から川西市に住居を構えられましたが、平成7年にお亡くなりになられ、ご遺族より川西市にコレクションが寄贈されました。