日誌

阪神淡路大震災から29年

 日差しがあるあたたかい1日となりました。

 2校時に地震に備えての避難訓練を行いました。29年前に起きた阪神淡路大震災、また1月1日に起きた能登半島地震で被害にあわれた方々のご冥福をお祈りし、全校生で黙とうを捧げました。黙とうの後、阪神淡路大震災について、子どもたちに話をしました。以下が話の全文です。

『29年前の今日、淡路島の北部を震源とする阪神淡路大震災がおこりました。その当時、先生は芦屋市の中学校に勤めていました。芦屋市は神戸市の隣にある市で、神戸市、芦屋市、西宮市の一部が震度7を観測した非常に被害の大きかった市でもあります。先生自身も西宮市で被害にあいました。当時のことはよく覚えています。いつもより少し早い時間に目が覚め、そろそろ起きようと思ったときに、とてもおおきな地響きが聞こえました。それからすぐに、立ち上がることすらできない強い揺れに襲われました。たった数十秒の揺れではありましたが、とても長く感じました。台所では、食器が落ちて割れる音が聞こえました。お隣の家からは悲鳴が聞こえました。地震が起きた朝の5時46分といえばまだ真っ暗です。地震と同時に電気も止まったため、部屋の中は真っ暗でしたが、自分自身がけがをせずに済んだことは確認ができました。自分が寝ていた部屋にはタンスがありましたが、さいわい倒れることはありませんでした。しかし、ほかの部屋では、本棚や食器棚が倒れました。もしこれらが自分の上に倒れてきていたら間違いなく大きなけがをしていたと思います。

 揺れがおさまり地震であったことは分かっていたのですが、どこで、どの程度の地震であったかなど何の情報もなくわかりませんでした。当然電気も止まっていたためテレビもつきません、スマホもまだない時代だったので全く情報がない状態でした。ただこのまま家の中にいても危険であると考え、駐車場においてある車に向かいました。車には暖房もラジオもあるため、寒さをしのぎながらラジオから情報を得ることができました。しかしラジオから得られる情報も混乱していて、神戸を中心として大きな地震がおきたぐらいしかわかりませんでした。

 地震から2時間後、自分の勤めている中学校へ向かいました。学校へ向かう途中、くずれて倒れた家、崩れた道路や壊れた橋などをたくさん目にしました。一瞬にしていろいろなものが壊されていました。まさに正月の能登半島地震のような様子でした。学校に到着して、まずは学校内のようすを確認しました。学校は液状化現象のために校舎は斜めに傾いていました。多くのガラスが割れ、廊下の天井の一部が崩れ落ちるなどの被害が見られました。

 この日から約2週間、学校は休みとなりました。さいわい他の地域に比べ被害の少なかった学校であったため、自衛隊、消防、警察の一時的な基地となりました。体育館や教室は地域の方の避難所として利用されました。私たち先生は避難所の世話、生徒たちの安否確認などで数日間はしりまわっていました、もちろん、ほとんどの先生も地震の被害者です。実際に家がつぶされ一時的に生き埋めになり助けられた先生や、親類を亡くされた先生もいました。学校生活が元に戻ったといえるようになるには、この日から約2年かかりました。

 みなさんに話したいことはたくさんありますが、すべてを伝えることはできないので、阪神淡路大震災を経験して思う大切なことを最後に話します。いかに最初の大きな揺れの時にけがをせずに自分の身を守ることができるかが大切です。当時は家具が倒れて大けがをしたり、食器やガラスなどの破片でけがをしたりする人がたくさんいました。科学技術が発達した今でも、残念ながら地震はいつ起こるか予測することはできません。そんな地震から身を守るのは、自分自身であることをしっかりとわかってほしいと思います。そのためにしっかりと知恵をつけてください。もし学校で地震が起きた時、もっとも役に立つ身のまもり方は、机の下にもぐること、これだけで倒れてくるもの、落ちてくるものから身を守ることができます。けがから自分の身を守ることができれば、そのあとのどんな困難なことにもしっかりと対応していけます。まずは自分の身を守ることを第一にしてください。』

 子どもたちもしっかりと話を聞いてくれました。

 

 

 今日がおむすびの日であることから、今日の給食はおむすび給食です。阪神淡路大震災でボランティアの炊き出しにより被災者に多くのおむすびが届けられたことが由来です。子どもたちは、自分でおむすびを作って食べます。みんな思い思いに一生懸命におむすびを作っていました。